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北海道指定有形民俗文化財(昭和38年【1963年】指定)
江差横山家は、初代横山宗右衛門(寛延元年(1748年)能登の国(現、石川県珠洲市)生れ)より現在まで八代、約250年、当地 江差の歴史と共に漁業、廻船問屋、商業を営んでいる家です。初代 宗右衛門は明和6年(1769年)、二十一歳でニシン漁が盛んになっていた当地、江差に至り、艱難辛苦の上、江差を代表する商家になりました。
文政五年(1822年)より江差の中心、姥神神宮前の現在地に店舗・住居を構え以来、現在まで約200年。江差で同じ場所に住んでいる家は、当 横山家のみとなっています。
同じ家族の者が八代にわたり住んでいますので、当時からの生活用品、諸道具、記録等、貴重なものが引き継がれています。
建物だけでなく、それらを含めての歴史資料として北海道 有形民族文化財の指定を受け、その歴史を伝えています。
又、二代目宗右衛門の時代、弘化二年(1845年)には、京都の公家、今城殿出入りを認める「許状」まで受け、当家に展示されています。
江戸時代 松前藩におけるニシン
江戸時代、松前藩においては、米作り等がまだできていませんでした。内地(今の本州などをそう呼称しました。)の他藩と違い、米による年貢(税金)ではなく、主にニシン、昆布、アワビなどこの地で採れる海産物などの移出による税金で成り立っていました。
そこで、米等による年貢(税金)で収入にすることのできない松前藩にとって、それに換わる主力商品であるニシンに鯡という字を用いて、お米を数えるように石数で数え、ニシンの沢山採れる漁場のことを千石場所と云いました。
現在は、鰊という字を通常当てはめています。
北前船、松前藩、江差
蝦夷地、松前と本州の交易は、北前船(当時松前・江差地方では弁財船と云いました。)を通じて行われました。
江差の地場商人(多くは北陸地方、能登、加賀、越中、越前、越後、近江の出身者)は、北前船交易で経営を行いました。
地場の有力商人は北前船交易を通じて、商品の取引きだけではなく、北前船がもたらす全国の経済動向、社会動向の情報を感知し、全国的広い視野を持って活躍しました。
鯡の用途
ニシンは「身欠きニシン、数の子」など食用に供するだけではなく、農産物の肥料としての用途が大きく重要でした。
江戸時代、1700年代から盛んになってきた、木綿のための綿花栽培、絹織物につながる養蚕で桑栽培の肥料として重要な役目を果たしました。
江差から送られたニシン肥料(〆粕)があったからこそ、日本の繊維産業が盛んになり、日本の工業化(マニュファクチャラー)近代化が進展し、明治以降の日本経済の発展に多大な貢献をしました。
同時期に、房総、九十九里など太平洋側のイワシ(乾鰯)も同様に、重要な役目を果たしたのはおもしろいことです。